真言宗  多宝山  金剛乗院 智山派
慈眼寺

慈眼寺の歴史

開山の由来

当寺は、金剛乗院多宝山慈眼寺と号し、今から七百八十年前の建久七年(1196年)後鳥羽天皇の御代、下野の豪族新田義兼公の開基により新田一族の祈願所として建立された真言宗の古刹寺院である。当時から、七堂伽藍を有した東国の名刹寺院として代々新田氏に保護されてきた。
又、弘安十年(1287年)に高野山の学僧信日法師が書写せる、「空海御遺告文」が当時から寺宝として伝わっていることから、相当の寺格を有していたことが考えられる。
下りて、応永年間(およそ590年前)醍醐の俊海僧正を迎え、當山の中興第一世とした。それによって、今日と醍醐寺の直末寺院となり。末寺十数ヶ寺を有し、室町幕府の保護を受けて、寺門は大いに隆盛を極めた。
又、応永三十年(1423年)に俊海僧正によって印可の授与された記録が残っており、真言宗の奥義が當山で伝授されていたことが明らかであり、関東の有数な寺院であったことがうかがわれる。又、僧侶の学問・修行の道場として多くの学僧が学んでいたことが記録として残っている。

江戸時代の興隆

江戸時代にはいって、慶安二年、家光公の御代、先規の例に習い、御朱印二十石を賜り同時に、従来から学問と修行の道場として活動してきた慈眼寺が、公式に常法談林の格として認められた。又、日光街道が完備し、特に、日光に徳川家康公の御霊廟が出来てから、日光社参の将軍家は、當寺を昼食所として定められた。それによって、将軍家と當寺は、深い関係を持つに至った。
 
その一例として、「宇都宮藩史録」の中に享保十三年(1728年)吉宗公の御時、
 
 享保十三年戌申四月十七日日光御社参ニ就キ、宇都
 宮城御止宿遊バサルベキ旨、山城守モ同道仕ルベキ
 由仰セ出サレノ処、江戸御留守松平伊賀守病気ニ付
 キ、山城守御留守ニ罷在、名代トシテ日向守(忠余
 公)宇都宮ニ参ルベク並ミ彦六モ罷越候様上意、側
 チ御待受トシテ両人宇都宮ニ罷越ス。日光御社参記
 ニ至フ。
 
四月十三日将軍家江戸発駕、
       岩槻城(城主永井伊豆守)泊
同 十四日御昼休幸手、
       古河城(城主本多中努太夫)泊
同 十五日御昼休、小金井慈眼寺、山城守名代日向
       守御迎トシテ参上、慈眼寺(入御ノ節、
       門前ニ於テ御目見、上意有え、相済テ宇
       都宮帰ル、
同 十六日宇都宮城出御
同 十七日御祭礼
同 十八日日光山出御、宇都宮城泊
同 十九日宇都宮城、出御
       小金井慈眼寺ニ於テ御昼休
 
の記事があり、日光社参の将軍家と慈眼寺との関係を物語ることができる。
又、當山古文書である「御年礼録」によると、當山住職は、毎年正月、江戸城に年始に参内することを許されていた。その時は、寺社奉行から拾万石大名の待遇をうけ、宿は江戸湯島天神門前町伊勢屋彦七旅館と定められており二十日間を要する大行事であったようである。
下りて、安永五丙申年には、将軍家治公の御来山を戴き、将軍家との関係も益々深くなり、諸堂の改築も行われた。